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第7官界彷徨

第7官界彷徨

伊勢物語その3 2010年9月~

2010年9月7日
 昨日は伊勢物語の日でした。
 先生は、奈良にいらしたそうで、国立博物館の「古美術の修理展」が一番の目的だったそうです。かの岡倉天心が創設した日本美術院は、古美術の復元もしたのだそうで、今も続けて行っているそうです。
 また、三十三間堂の仏像の復元は、太平洋戦争以前から行われ、あの戦争の最中にも国の予算から復元費用が出ていた、とのこと。日本が文化国家である所以である、とのことです。
 
 そして、唐招提寺に行こうとしてタクシーに乗った時、登大路の先に鉄塔が沢山並んだ山が見えたので
「あれは生駒山ですか?」と訪ねると、「その通りです」と運転手さんが答えたとか。
「生駒山は近いですか?」と聞くと「近いですよ」と言われ、23段の筒井筒のことを思ったそうです。

 23段は、「男」が、幼なじみの大和の女のもとから「高安の女」の元に山越えをして行く話。
 遠い、険しい、というイメージで読んでいたが、意外と近いのかも。と思ったそうです。

 また、7月にNHKの「和の極意」という番組で、信貴山の塔頭での宿坊体験を放映しているのを見ていたら、標高450メートルのその宿坊の窓から、夜の奈良市街が間近に見えていて、高安に近い信貴山と奈良は意外に近い、と思われたそうです。
 
 さて、第24段です。

「むかし、男、かたいなかに住みけり。男、宮仕えしにとて、別れ惜しみて行きにけるままに、3年来ざりければ、、、、」
 というお話です。

 3年たっても帰って来なかったので、女は心をこめて求婚する別の男と結婚してしまったその夜、音信不通の男が帰ってきて「戸を開けてくれ」と叩いたけれど、女は開けられないで歌を読みました。
*あらたまの年の三年を待ちわびて
         ただ今宵こそ新枕すれ

 男は返して
*あづさ弓ま弓つき弓年を経て
    わがせしがごとうるはしみせよ

 と言って帰ろうとするので、女は
*あづさ弓引けど引かねど昔より
     心は君に寄りにしものを

 と言ったけれど男は帰ってしまいました。女はとても悲しくなり、後を追いましたが追いつけなくて、清水の湧いている所に倒れてしまい、自害して果てました。その血で
*あひ思はで離れぬる人をとどめかね
     わが身は今ぞ消え果てぬめる
 
 というお話でした。
 伊勢物語の主人公の「男」が持たされている性格は「みやび」
 作者はここに出て来る「男」は、みやび心を持ち続けていると信じて疑わない。

 文学は、その良さ(みやび)を描こうとして、そのものの実体のつまならさを露呈してしまう。      

 女は「待つ」存在でなければならない。その女に、男は「みやび心」の洗礼をする。

 こうして女が死んでも、男のみやび心は反応を示さない。男と女は永遠に分かり合える存在ではないのかも知れない、がテーマらしい。

 男の住んでいた「かたいなか」というのは、本当の田舎ではなくて、都に近い田舎という意味だそうです。
 3年待っても帰って来なかった、、、、の3年の基準は、当時法律で決められていて、
 戸令(民法みたいなもの?)に
「たとえ結婚していても、その夫が「落外蛮」(外地で身を持ち崩す)「逃亡」「不帰」した場合、子どもがいる場合は5年、いない場合は3年たったら、よそに嫁に行っても良い」
 というのがあったそうで、3年が出て来るのですが、この男は、「宮仕え」したので、この場合の女の立場は「いつまでも男を待つ」という立場でなければならないらしい。

 深いような深くないような24段でした。

2010年10月6日
 昨日は伊勢物語の日でした。第24段のつづき

 あらすじは、片田舎に住んでいた男が職を求めて都にゆき、3年経って帰って来たら待っているはずの妻の婚礼の日だった。男を追った女は、追いつけずに泉のもとで死んでしまった、、、という話。

 歌2首の説明だけで終わってしまいました。歌は、男
*あづさ弓ま弓つき弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ
 と、女
*あづさ弓引けど引かねどむかしより心は君に寄りにしものを

 です。
 3年という期日は古来より意味があったそうで、
 源氏物語で、須磨明石に源氏を流して、ちょっとびびった兄の帝に対して、母のこきでんの女御が、「3年も経たないのに許すなんて法がありますか!」と叱ったことや、

 世阿弥の能の「砧」というのは、九州の「あしや」から都に裁判に行った男が、3年もかかってしまったのであしやで待っている妻に「長引いている」と侍女の「夕霧」を使いに出したが、妻は信じない。そこで夕霧と妻は「砧」を打つ、、、というお話だそうで、、、。
 そういえば題名だけ知っている「あしやからの飛行」という映画の「あしや」が、どこにあるのか分かりませんでした。

 歌にある「あづさ弓」の梓の木というのは、中国で大切にされた木で、天子の棺も梓の木だそうです。神に近い木とされ、
あづさ巫女とは、梓の木を持って神を降臨させ、お告げを伝える巫女のこと。
日本でも書物の完成を「上梓」と言う、、、なるほど~。

 古今集の1078番ー神遊びのうた=とりもののうたに、
*みちのくの安達太良ま弓わがひかば末さへよりこしのびしのびに
 という歌があるそうです。
 都にいて、遠くみちのくより送られてきたものを通して、未知の世界への憧れ、地理的心理的に遠いものがゆっくりと近づいてきてほしいというような、、、
 この時に使われる「ま弓」も、神が降臨する「採物」として見られているそうです。

 平安時代の人たちは戦をする気力体力がなくて、弓も片膝を立てて打つ小さなものしかなかったようです。そして、もっぱら祀りのために使用されたみたいです。
 光源氏も、なにがしの院で夕顔に取り付いた物の怪を退散させるために、お付きのものたちに「弦打ち」を命じます。それは呪的な魔除けの方法で、弦をぶんぶん鳴らすだけらしいです。

万葉から古今への弓の移り変わりのデータとして
万葉集巻の2(96~100)
久米禅師の石川の郎女をつまどひし時のうた
*み菰刈る信濃の真弓わが引かばうま人さびて否と言はむかも(禅師)
*も菰刈る信濃のま弓引かずしておそさる行事を知るといはなくに(郎女)
*梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りがてぬかも(禅師)
*東人の荷前の箱の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも(禅師)

 よく分からないけど、昔の人もラブラブですね~!
 そして巻の12(2985番)
*梓弓末はし知らず然れどもまさかは吾に寄りにしものを
別の本では
*梓弓末のたづきは知らねども心は君に寄りにしものを
 とあるそうです。また巻の4(505番)阿部郎女の歌に
*今更に何をか念はむうち靡く情は君に寄りにしものを

 というのもあり、伊勢物語のこの女の歌
*あづさ弓引けど引かねどむかしより
 心は君に寄りにしものを
 で分かるように、伊勢物語は想像以上に万葉集に近いと言えるそうです。

 
2010年11月2日
第24段続き
 都に働きに行って、3年経っても帰って来なかった男を待ち切れずに、新しい男と結婚した女。帰って来た男は
*梓弓真弓つき弓年を経て
   わがせしがごとうるはしみせよ
 と歌を詠みます。

 私があなたを愛したように、新しい男に尽くしなさい、と読めるとか。
 この言葉によって3年前の2人の間が甦り、女は死なねばならないのです。
 これを女が可哀相と読むのは現代人の反応で、こんな素晴らしい感覚の男、業平に出会った女は、待ち続けていなければならなかった、というのが伊勢物語の大きなテーマなんですって。

 ところで、「うるはし」と「うつくし」は違うのだそうです。
「うるはし」は、ととのった美しさ
「うつくし」は、崩れても美。

 清少納言は「うるはし」が大好き!
 敬愛する中宮定子の後宮を例えるのには一番ふさわしい言葉なのだそうです。

 しかし、紫式部の「うるはし」はまた違って、「うるはし」過ぎる場合は、、、つきあいきれないことも。その例は葵の上の
「けざやかに気高く乱れたところまじらず、あまりうるはしき御ありさまのさうざうしくて(源氏はさびしく感じてて)」
 という描写などあるそうです。

 源氏には「うるはし」が71例
 万葉集には「うるはし」が14例
      「うるはしき」が6例
      「うるはしみ」が8例 あるそうです。
 万葉集巻4 566
*草枕旅行く君をうるはしみたぐひてぞ来し志可の浜辺を

 伊勢物語では、男の歌を見た女は後を追って行きますが、追いつけずに、
「清水のあるところにふしにけり」女の身はそこに倒れてしまいます。そしてそこにある岩に自らの血で書き付けます。
*あひ思はで離れぬる人をとどめかねわが身は今ぞ消え果てぬめる
 
 「清水」は普通にそこにある言葉にもかかわらず、時代とともにいろいろなイメージが付与されてきた。
万葉集巻2 158
高市の皇子が十市の皇女に送った挽歌に
*山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
 この山吹の清水とは黄泉の世界。山清水の山とは生者と死者を分ける場所。清水とはその奥が黄泉の国=死後の世界につながっていると思われてきた。
 
 この「清水」のように文学の言葉に付与された人々の想像は、金銭では代えられない人間の財産なのだそうです。
 源氏物語の若菜にもこういう源氏の歌が
*涙のみ塞き止め難き清水にて行きあふ道ははやく絶えにき
 ここで読者は伊勢物語のこの段を思い出すのです。 

 古今集にもこういう歌が
*いにしへの野中の清水ぬるけれどもとの心を知る人ぞ汲む

 そして先生は、堀口大学の翻訳詩集「月下の一群」よりシャルル・ゲランの詩
「夕暮れの戸口」を紹介してくださいました。
=この夕暮れに私の戸口で泣いているのはだれでしょう、、、、
 これは伊勢物語に通じるのだそうです。
 全部読んでみたいですね。

2011年1月11日
今日は伊勢物語の初講義でした。例にならって、終わりに花びら餅とお抹茶でお茶会。
 
第25段
「むかし男ありけり。あはじとも言はざりける女の、さすがなりけるがもとに、言ひやりける。
*秋の野に笹分けし朝の袖よりも
    あはで寝る夜ぞひちまさりける
(秋の野に笹を分けて帰った朝の袖よりも、逢わないで寝る夜の方がずっとひどく涙に濡れたことでした)
 色好みの女、返し
*みるめなきわが身を浦と知らねばや
     離れなで海人の足たゆく来る  」

 この歌は古今和歌集に入っていて、作者名は男は在原業平、女は小野小町です。
 業平の歌はごく普通の歌ですが,小町の歌は相当の傑作らしい。
「みるめ、とは海藻布のことだが、小学館の日本古典文学全集は見る目と解釈
「海人たちはみる(海藻)が生えない浦ということを知らないで海岸で足をだるくしている、私も見る目をもたないつれない女なのに、あなたは毎夜かかさず求婚においでになる)

 しかし、見る目の用例は平安時代にはなかった。出て来たのは徒然草以降。
 なので岩波古典文学全集の「みるめ=逢う機会」というのが良さそう。

 逢う機会を作ろうともしない私。
 主体は自分であり、心を閉ざしている私。
 「みるめなきわがみを「浦」と」
 の「うら」の「う」は憂し辛しの「憂」プラス形容詞の語幹についてその状態をあらわす「ら」という解釈で。

 ちなみに「辛し」は相手の自分に対する思いやりが気にくわない=外に向かう
「憂し」は相手に向かわず内攻する感情で出会った対象にとって私はダメな存在、と、ここでは小野小町らしい女性が謙遜している歌。
 これは人の持てる高貴な精神。
 
 小町の時代は、男のまなざしにさらされて思う事を表現できない女たちが、歌ことばの中での自己表現を洗練させて行った時代でした。
 男と同じような歌を詠んで「同じに詠める」というのではなくて、女としての立場で男の何倍も優れた歌を作った時代。

 そして、この歌の重さは、打ち消し否定の言葉が3つも入っていて、比べれば業平の歌は軽過ぎて到底対抗できない。
 歌の言葉に生命をかける女の情念が、「うら」の中の「憂し」とこの3つの否定語にこもっている。

 んだそうです。そして先生は、最後に萩原朔太郎の詩に=「うら」という女に=というのがあると紹介してくださいました。
 朔太郎、恐るべし!小町の思いをこうまで深く汲んでいたのでせうか。
 
萩原朔太郎「青猫」 
        猫の死骸


          海綿のやうな景色のなかで
          しつとりと水気にふくらんでゐる。
          どこにも人畜のすがたは見えず
          へんにかなしげなる水車が泣いてゐるやうす。
          さうして朦朧とした柳のかげから
          やさしい待びとのすがたが見えるよ。
          うすい肩かけにからだをつつみ
          びれいな瓦斯体の衣裳をひきずり
          しづかに心霊のやうにさまよつてゐる。
          ああ浦 さびしい女!
          「あなた いつも遅いのね」
          ぼくらは過去もない 未来もない
          さうして現実のものから消えてしまつた。……
          浦!
          このへんてこに見える景色のなかへ
          泥猫の死骸を埋めておやりよ。


           沼沢地方


          蛙どものむらがつてゐる
          さびしい沼沢地方をめぐりあるいた。
          日は空に寒く
          どこでもぬかるみがじめじめした道につづいた。
          わたしは獣(けだもの)のやうに靴をひきずり
          あるいは悲しげなる部落をたづねて
          だらしもなく 懶惰(らんだ)のおそろしい夢におぼれた。
          ああ 浦!
          もうぼくたちの別れをつげよう
          あひびきの日の木小屋のほとりで
          おまへは恐れにちぢまり 猫の子のやうにふるへてゐた。
          あの灰色の空の下で
          いつでも時計のやうに鳴つてゐる
          浦!
          ふしぎなさびしい心臟よ。
          浦! ふたたび去りてまた逢ふ時もないのに。

            三好達治選『萩原朔太郎詩集』岩波文庫・「桃李の道」抄より




    
2011年3月1日
 今日は伊勢物語の日でした。
 第三十九段
「むかし、西院の帝と申す帝おはしましけり。その帝のみこ、崇子と申すいまそかりけり。

 そのみこが亡くなって、葬式の夜、その宮の隣の男が、葬儀を見ようと思って女の車に一緒に乗って行った。葬列がなかなか出発しないので、皇女の死をいたんで泣くだけで終わってしまいそうななか、天下の色好みと評判が高い、源の至」が、この車を女車と見て寄って来て、色めいた態度を示しながら、蛍をつかまえて女の車に入れたので、女が「この蛍の火で姿がみえてしまうかもしれない。この火を消してしまいましょう」ということで、一緒に乗っていた男が歌を詠みました。
*葬列が行ってしまったら、もう皇女とは永遠のお別れ、そう思って灯火を消している私の悲しみの声をお聞きください。

 それに対して至(いたる)の返しの歌
*本当に私も心を打たれることです。あなたの泣く声もたしかに聞こえます。しかし、ともしびを消したとおっしゃるが、蛍の思いの火は、消そうとしても消せないものと思いますよ。

 天下にその名も高い好色家の歌としては、平凡なつまらないものでした。
 至は「順」の祖父。皇女の葬礼の儀もこれではかたなし。」

☆という、変な段でした。
 女の車に一緒に乗っていたのは、業平くんで、至は、嵯峨天皇の孫であり、源融(とおる)の甥にあたります。

 伊勢物語の成立が、3次に別れているとした説には、こういう段の存在があるのだそうです。
第1次は、古今和歌集に業平くんの歌として出ている、出典が分かる歌が使われている段。
第2次は、業平集という私歌集に出てくる歌が使われている段。
第3次は、どう見ても業平作とは思えないが、登場人物に歌わせている段。

 少ない段から、足されて増えて行った、これを古典の研究では「増益」というのだそうですが、業平の伊勢物語を愛する読者たちの存在がそれを後押ししたのだと考えられる、、、そうです。

 崇子内親王は、848年5月15日にみまかったので、この「蛍」の話は、季節的に合うのですって。
 それにしても、業平らしい男と、至の歌合戦、妙なお話ですね。

 ところで、伊勢物語の初段に
*陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに
    乱れそめにしわれならぬくに
 という源融の歌が使われており、伊勢物語の成立には、この源一族の存在が感じられるそうです。
 政治に権勢を誇る藤原氏に対して、遜色のない家柄でありながら、隅に置かれている源家と在原家のアンチ藤原氏の文化的巻き返しのたまものが、伊勢物語ではなかったか?
 

2011年5月3日
第40段
『むかし、若き男、けしうはあらぬ女を思ひけり。
 差し出口をする親がいて、息子がこの女を好きになっては大変と、女をよそに追い払おうとしたが、すぐには追い払わなかった。
 男は親がかりなので自分の意思を通す力もないし、女もいやしい身分なのであらがうすべもない。
 そうしているうちに男の思いが募るので、親は女を無理に追い払おうとした。
 男は血の涙を流して悲しんだが、引き止めようもないので、泣く泣く歌を詠んだ。
*いでていなば誰か別れのかたからむ
        ありしにまさる今日はかなしも

 と詠んで息が絶えてしまった。まさかこんなことにはなるまいと思っていた親はあわてて、神仏に願を立てて祈ったところ、翌日八時頃息を吹き返した。
 昔の若者はそんな一途な恋の悩みをしたのだった。今の(若くても)年寄りじみた連中には真似の出来ないことだ。』

 ここに「人の子なれば、まだ心いきほひなかりける」
 という言葉があって、人の子なれば、親の悲しむことはしたくない、という気持ちがあり、
 また「人の親」という子どものことを思う存在もある。「すぐには追い払わなかった」という所に、子を思う親心が出ているらしい。

 そんな伊勢物語を読んで、柏餅でお茶を飲んだのでした。


2011年9月
「第45段」
 むかし、男ありけり。人のむすめのかしづく、いかでこの男にもの言はむと思ひけり。
 うちいでむことかたくやありけむ。
 もの病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。
 時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵は遊びをりて、夜ふけてやや涼しき風吹きけり。
 蛍高く飛びあがる。この男見ふせりて
*行く蛍雲の上までいぬべくは
    秋風吹くと雁に告げこせ
*暮れがたき夏のひぐらしながむれば
    そのこととなくものぞかなしき

 伊勢物語の書き出しで有名な「むかし、男ありけり」は、25段以来。
 
 むすこ、むすめ、の「むす」は成長してやまない、の意味があり、「苔のむすまで」の「むす」と同じ。

 この話、男はむすめの存在を知らなかったが、自分を恋いこがれて死んだ見ず知らずの娘の死を知らされて娘の家へ出向いて、悼み「喪に服した」これが「みやびな男」のとるべき態度。
 
 「もの病み」という言い方は、単なる「病み」でも意味は通じるが、「もの」をつけたのは、恋情を言わないで死んだむすめの心の美学に対して、作者が心を寄せてつけたことば。
 このように、伊勢物語は省略された短い文中に、行き届いた言葉がちりばめられているのです!

 そして男は、「つれづれとこもりおりて」娘の死を悼む。娘は死を代償として男の心をつかんだのです。
 時は夏と秋のあわい。まだ暑いころ。
 「宵は遊びをりて」
 は、遊んでいるのではなくて、管弦を奏して娘の魂の甦るのを祈るのです。

 歌が2首あるのは、思いが多くて1首では歌い切れない場合なんですって!
 この歌は続古今集に「業平朝臣の作」として出ているそうです。

 この片恋の話は、若い女性へのレクイエム(鎮魂歌)という形でかつて堀辰雄が「文芸」にリルケを引いてエッセイを書いているそうです。しかし、先生の膨大な資料の山に埋もれて、見つけられなかったそうなので、多分次回教えてもらえるかも。
 読書の秋であります。





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